脳梗塞発症後、左半身片麻痺後遺症者の日常

新型コロナウイルス感染症、脳卒中、脳梗塞 左片麻痺、リハビリ、おっさんのぼやき多め。


新型コロナウイルス感染症、ホテル療養の真実②

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長くなりそうなので②に分けて書きます。①はホテル療養に至った経緯、②は、ホテル療養の当時の実態を書いていきます。

ホテル療養の2012年4月の実態編です。毎朝、朝から「学校の様に館内放送が流れるのです「ホテルから自分勝手に抜け出して外に出たら

警察に通報します。」と毎日同じ放送がされ、病気で苦しんでいる人達がいるのに、犯罪者扱いですよ。ここは刑務所か?と思った。

この国には、基本的人権なんかないと思った。色々証拠が残っていたら、国、大阪府を訴えられるかも?

熱が全然下がらずに、解熱剤を自分で用意しないといけない環境で、コロナに罹った奴が悪いとの思いがあったのではないか、病人に寄り添うという環境では無かった。そこのホテルはかなり大きなホテルで当時多分100名ぐらいが感染者がいたのではないかと思う。その100人の患者を常時たった2人の看護師で対応していた、もちろん医師はいず、医療行為は全く行われなく、解熱剤は自分で用意しないといけなかったので、途中、解熱剤が無くなってしまい、妹にホテルまで書留かなんかで送ってもらって、1階まで、自分で降りていって取りに行くという感じだったので、部屋に内線で、1回から毎日朝に連絡が入り、自分様子体温や、血中酸素濃度を看護師に報告するという事だったと思います。

毎日、食事時になると、館内放送で療養開始時に自分で選択した種類の弁当別に配給の時間が決まっていて、自分の選んだ弁当が準備されたの時間帯に1階まで、熱があるのにしんどいのにエレベーターで降りて行って弁当をとって、水、ポカリスエットなどを貰い、部屋に戻る生活なので、辛かったです。

着替えをホテル内の共同のコインランドリーで洗濯をする。

その時の問題は、その療養先のホテルに、直接家族といっても直接連絡できない仕組みになっていたと言う事です。

家族が、私と急に連絡が取れなくなったと大騒ぎになったみたいで、私が住んでいる市の保健所に電話しまくって、やっとホテルに連絡がついて、私が倒れているのを発見してもらったという経緯です。

1人個室のホテルの部屋で、私の様に倒れていたら、誰も気づかれないと言う事だったので、も少し早く発見されていたら、tPA療法(血栓溶解療法)は、脳梗塞を発症後、4時間30分以内だったら使えたみたいだったみたいなので、私がいつ倒れたのか時間がはっきりしなかったので、tPA療法(血栓溶解療法)は受けれなかったようだ。tPA療法(血栓溶解療法)受けれていたら左半身の麻痺はマシになっていたかもしれないかも、たらればを言っても何も始まらない。

私が倒れた前の日にやっとホテルの別の部屋で、酸素吸入の措置ができる様になりました。館内放送が流れた。あの時は、行政も新型コロナウイルス感染症の事を今の様に理解していなかったので、あと、病院じゃじゃ無かったら医療行為は出来ないと言うアホみたいなこだわり、緊急事態なんやから、もっとまともな対応をして欲しかった。

ほんま、療養している患者に対してずさんな管理で、あの時のことを忘れたくても忘れられない。嘘みたいな事を書いていると思われるかもしれないけど、嘘じゃないです。あの館内放送を驚いたのと絶望しかなかった。何時、ここから出れるんだろうと毎日思っていました。まあ、自分の力で出れなかったんですけどね。コロナが陰性になって自分の力で帰る事が出来なくなるなんて、考えてもいなかった。早く良くなって、仙台に転勤で行く気満々だったので、

私の人生を完全に変えてしまったのが、新型コロナウイルス感染症だ。当時は当然怒りがありました。

今もまだ生きている現実と、うまく生きていかない現実があるので、私みたいなめに合う人が、今後出ない様にとの思いで、ここに書くわけで、いろんな人にあの時のことを知って考えて欲しいと言う気持ちです。その怒りを許すことが大変難しい事で、今腹が立つことがあっても、あの時のことを思い出して、気持ちを抑えようといつも思っています。

倒れた時の記憶は、いまだに鮮明に覚えています。ホテルの部屋にある椅子に座っていた時に、トイレに行こうと思って、立ち上がろうとした時に左半身側を下に倒れたんです。ちょうどションベンを行こうと思っていた時なので、履いていた、ジーパンのなかに漏らしたのを覚えています。

コロナに罹ったら、おしっこの色が、毎回コーヒー牛乳のような尿が出でいたのを思い出しました。毎日怖かったです。他の人はそうなのかな?

倒れてからかなりの時間が経って、私は、発見されて、tPA療法(血栓溶解療法)は受けれなかった。救急搬送されたのが関西医大滝井病院だ、ICUに何日間かいたみたいだったけど、自分で記録を残していないので分からないが、コロナ陽性で脳梗塞の患者なので、医療従事者の私の扱いが大変だったと想像できる。当時、意識が混濁していたとのことで、その時の記憶は断片的に覚えている。鼻から24時間ずっと酸素を入れられいて、とても苦しかった記憶がある。また、右足の甲の静脈?から採血されたのを覚えている。なんで、腕からじゃなく足からなのかなと思った。脳卒中の患者は、せん妄というものを見るとのことを後で調べて知った。私も見た。今もでも覚えている内容は書かないけど。

家族に聞くと、当然面会はできないので、夜に病院の前まで、来て病院を眺めていたとのことだ。当時、覚悟しておいてください的なニュアンスで言われていたとか、関西医大には今も感謝しています。あの時、毎日、妹に私の様子を連絡してくださった医師の方がいるらしいですが、全く記憶にないのでいつか、お礼を言いに行きたい、その医者も私の事を忘れて居られるかも知れませんがと思っています。

今、思えば、あの医療崩壊で、脳梗塞になってなかって、いなかったら救急搬送で関西医大に入れなかったかもしれないし、あのまま発見が遅すぎて、あのアパホテルの部屋で倒れて死んでいたかもと思う。

人生が変わってしまったとはいえ、まだ行きているのだから。何か将来、良い事があるだろうと思いながら、あの時死なかったのは、

私に何か行きていく使命があるのではないかと思って、これからどんな事が起こっていくか楽しみにして、生きていけばいいんじゃないかと思う。

私は、今後悔する事がありますか?と聞かれたら、ホテル療養に行った事ですと答えるだろう。しかし、病気にならなかったら、出会う事のない人達に出会ったことに感謝しているし、今の私の喜びになっているので、そう答えるのも質問も愚問だと思うえるようになったし、そうでも思わないとやってられないんです。正直、私は、運が悪い人間だったと思うのは簡単だし、回復期の時に、夜、よく泣いていましたが、あの時の死んでいれば良かったとすら思った事があります。正直、自死した友人の事を以前書きましたが、自死したいという思いが出るのはよくわかります。自分もよくあったので、死んでたら楽だったのになと思う事はあります。

私の会社の仕事での師匠は、良くポジティブに考えて下さいとメッセージに書いてこられます。そのポジティブに考えて、という言葉を私なりの

ユーモアに変えて書くと、「あの世界中でひどいことにパンデミックの病気にワクチンも打っていなくて罹って、重症な肺炎にまでになって、脳梗塞を併発して、生き残った俺のDNAは優秀なんだぞ」と言いたいです。「俺の生命力はすごいやろと?」ポジティブに言ってやる。何も怖いものはない。

私をここまで回復する様に導いてくださった医療従事者の皆さんのおかげなのは、言うまでも無いですが、自分だけで今の状態まで回復できたわけではないので。

明日以降に、辛かった、急性期、回復期入院のことを徐々に書いて行きたいと思います。


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