脳梗塞発症後、左半身片麻痺後遺症者の日常

新型コロナウイルス感染症、脳卒中、脳梗塞 左片麻痺、リハビリ、おっさんのぼやき多め。


6月16日金曜日


今日は、朝に歩いてアパートに来た。

歩いている途中に何を描こうかネタを考えながら、歩いていたので、この病気になってからながらで作業する事が、できにくくなりつつあるなと思った。

いわゆる、マルチタスクである。ながらスマホは、身体的不自由でできなくなったが、よく街で、ながらスマホの人はたまに見るが、タバコを吸って、ながらスマホの人が居る人がいるけど、相当な能力があるのかもだけど、知らんけど、いい仕事について優秀な人かもしれない。

歩きタバコをでスマホしながらをできる事が普通の事だと思っている人もいるかも、ながらスマホをしたくても出来ない人いる。その事を良し悪しを言いたいわけでは無い。3年前まで健常者として、暮らしていた自分は、それが当たり前のことじゃない事が理解できた。生まれながらに障害がある人によっては、私たちが当たり前と思っている事が出来ない人たちもいるという事がわかった。普通に出来ている事ができなくなった時に、その普通にできる事が、ありがたいんだと思えるようになるんだと、私はわかった。(健常者という言い方も良くないかも、もっと勉強します。)

今日、アパートの近くに国道一号線があるんですが、その国道の近くを朝散歩の時にいつも通るのですが、そこにある自販機でお茶を買っていたら、いつも人通りが少ない場所なのに、側道に観光バスが2台停まっていてアパートの近所の小学校の子どもたちの遠足に行くため、そこで、小学生が、組み分けをされて、バスに乗り込む所に出会った。お茶を購入し、カバンに入れて、その中の小学生の一人が、多分自分を見て、「デカって」て言われてしまいました(笑)大きいことはいいだよ、大は小を兼ねると頭で思いながら、知らんふりをしながらアパートに向かって歩き出すと、その列が終わり、多分一学年だけの遠足で、クラスが2クラスか3クラスぐらいしかいない人数なのかなと思った。私は、第二次ベビーブーム時代のど真ん中の人間で、体罰OKな根性根性ど根性な世代の人間なので、大阪で比較的都市部で「いなかた市」と揶揄されるところの出身ですが、1クラス40人以上で、一学年6クラスあった。

確かに最近少子化と言われるいる事を見て、やっぱり子供が少ないんだな。と思った。観光バス2台しかいなかったので、私達の時には1クラスにバス1台という感じだったので、と思ったという話である。

今日、歩きながら考えていたのは、半年も長いリハビリ入院でなんであんなに頑張れたのかという事です。

基本、真面目な性格で面白くない人間なのですが、主治医の許可が出るまで、コンビニで食べたい物があっても食べないというのを守って、基本規則を守る人間なんです。だけど、いわゆる落ちこぼれな人間なんで、学校の勉強を、当時の暗記を重視した教育を受けてきた人間である。そんなにいい成績を取ったことが無いし、私の人となりをここで、ダラダラ書くと義務教育は、公立学校で受けて、中学校卒業の時に地元の中学の同級生が沢山行く公立の高校受験に失敗して、仕方なしに公立高校の滑り止めで受験していた私学の高校に行った。

その私学に行った所、第二次ベビーブームのど真ん中世代なので、私と同じように、希望の高校に受験に失敗した人間たちが、学校が想定していない人数、入学してきたので、40数名だったと思う。私たちのクラスは、想定外の人数が入学したので、もともと理科の実験室であった、部屋を急遽、学校が改装して、準備した部屋だった。あの床がゴムみたいな感触の床だったのを覚えている。いわゆる普通科で、私のクラスメイトは色々な人間がいた。

私の出身校は当時大阪の私学の中で3本の指に入るアホ学校で、そんなにヤンキーなんかはいなく、いわゆるおちこぼれの受け皿という程の学校で、

当時は男子校で、今は、違いますが、そのアホ学校に、ちょいマシな連中が滑り込みで来た人が多いクラスだった。私のクラスメイトには、あの鈴木大地さんが、高校の時に背泳で出した記録を破って、インターハイに優勝した人がいます。彼はスポーツ推薦で順天堂大学に進学しました。オリンピックの強化選手に選ばれていた人で、出身校はスポーツが特に陸上部が勝ったので、これを書いたら、私がどの高校出身かばれてしまう。当時の要はマンモス校で、アホ高校のくせして、特進科があり、体育科2クラスあり、普通科確か7クラスあり、機械科、電気科、建築科、など色々な工業科もあった学校で、

今を思えば、その学校に行っていなかったら、私が出た出身大学には、進学できなかったと思う。私の人生のターニングポイントとなった高校時代だ。

そ高校の時代に出会った日本史と国語の恩師になる人と出会った。私は、大学に入学した時に、教員になりたい夢があった。その国語の恩師のような教師になりたいと思って、大学在籍目指していたこともあ理、教育実習にその母校の高校に行き、大学卒業時に高校の地理歴史の教員免許を取った。

なんで、入院生活と関係ないやんと言われそうだが、こんなことを書いているかと言うのも小学校中学校の時の暗記教育が苦手で、宿題を平気でやって行かない子供だった、授業中に立ち歩く、隣の女の子にちょっかいはかけるとどうしょうもない子供だったので、中学卒業時に落ちこぼれてしまったんだろうと思うが、今の真面目の部分をその高校の時に養われたんだと思って、書いているのだが、その国語の恩師の授業は、古文、漢文と授業がある日の前に必ず予習をしておかないと、先生からの質問に答えられないシステムで、先生からの問いに答えることが出来てって、よく褒められることがあり、嬉しくて認められたのを嬉しくて、あの毎日の教育方法が、染み付いたのかもしれないと思う。正直、その先生はずっと県道をやっておられたので怒ったらめちゃくちゃ怖かったので、生徒からも恐れられていた先生だった。その教育体験から国語的な、文章を書くと言う事が好きなのかも知れない。

入院時の話に戻ると、要は褒められて伸びるタイプなんです。入院中はセラピストの先生方に昨日より良くなりました、先日より良くなりましたねって、褒められて頑張れたのでは無いかと思う。セラピストが自分を褒めてくれると言うことは、自分の回復を喜んでくれている。一緒に私の回復を喜んでくれていると言う私に対しての愛情を感じていたから、当然セラピストだけじゃなく、個室にいたことで、毎日、家族に電話で話ができて、家族が支えてくれたという事もあって当然感謝しています。当時はコロナ渦だったので、基本家族といっても面会は禁止であったので、普段あって話をする人といえば、主治医と看護師さん達と、担当セラピストとのやりとりしかほぼない中、入院患者同士で、仲良くなった方がとのやりとりしか出来ないという、制約が多かったのが多かったのが、逆に良かったのかも知れないなと思います。

今朝、あの小学生達を見て思い出したことがあって、

入院中、ほぼ毎日自分を担当してくださっていた言語聴覚士の先生に褒められたくて、子供の時には宿題をちゃんと出来ない子供だったのに、その先生がお休みされる時に必ず、私に宿題を出されてんですが、その宿題というのが、小学生がするマス計算のプリントで、それを毎日毎日真面目にやっていたことを思い出した。その原点は、私が広告の恩師に受けたきた教育にたあのではないか、さっきも書いたけど小学校中学校の時には、平気で宿題をやって持って行かない、子供で、中学校の時に、大阪府は、地元集中という制度があって、その受験に失敗した学校は、自分の中学生徒の大半が合格するという制度であったのに、その制度があるのに受験に失敗して、その公立高校に行かなくてよかったのかも知れない。今を思ったらな話だが、両親に金銭的な負担をかけさせてしまったという思いがあるが、あの高校に行ったから、日本史が得意になって、国語が得意になって、出身大学に合格できたんだから、

出身ん大学に行っていなかったら、先日書いた静岡から来た同級生と出会わなかったし、DJもやっていなかったはずなので、いろんなことが繋がっているという事だという事だ。

なんか、日記というか、自伝のような自己満足な日記ですが、最近、は、もっと努力して、教師になりたかったなと思う。

人に影響を与える仕事っていい仕事だと思うし、あの入院で私は、再度人間としての教育を受けたと思っている。

本当に感謝だ、他人にあんなに優しくしてってもらった事が初めて経験した。彼女のような方が私の様な患者さんの事をこれからも救ってくれてくれる事をいつも思っています。

その方は、医療従事者として、お仕事として、当たり前の事をしたと言われるかも知れないが、自分が、コロナ渦でのという病院長期入院という閉鎖された環境で、リハビリを頑張れたのは、彼女のおかげだと思う。誰のことかわかる様に書いてしまってすみません。これが私なりの愛情表現なんです。

自分という人間はこんな人間なんですと書いておかないといけないと勝手な、おっさんの承認欲求です。こんなブログ読んでても面白くないかも、自分の同じ様な病気の後遺症に困っている人の為になることをもっと書いて行かないとと勝手に思っています。


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